ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ

映画

ジョーカー2を観てきた。これは映画『ジョーカー』(2019)の続編だ。ジョーカーが民衆を率いて暴動を起こし捕まった2年後が描かれている。物語の主軸はハーレイ・リー・クインゼルとの出会いとジョーカーの殺人容疑をめぐる裁判だった。ちなみにサブタイトルのfolie à deuxには二人の狂気という意味があるらしい。

賛否が分かれているらしい。日本での公開初日に観に行ったが友達から、面白くないっぽいよだとかアメリカでは不評だとか言われた。しかし自分の評価としてはとても面白かったと思うし、好きだった。ただ、サイコなジョーカーが暴れる姿を見たいという気持ちもあったため、少し物足りなさを感じたのも事実だ。

今回の作品は、結局ジョーカーになりきれないアーサーの人間の弱さが描かれていたのだと感じた。裁判の争点はアーサーの中に分裂した人格(ジョーカー)がいるのかジョーカーは素のアーサーなのかであった。ハーレイとの恋や沸き立つ群衆を目にし、アーサーは高揚とした気分になったのだと思う。弁護士を解雇し、ジョーカーの姿で法廷に立ち、ついには調子に乗って看守への暴言をカメラの前で言ってしまった。すると牢獄へ帰った際に看守たちから羽交締めにされ、アーサーを庇った囚人の仲間が絞首で殺された。これを受けていくら熱狂的な信者が社会にいようとも、法廷で狂気的で強いジョーカーを演じようとも、現実には看守に何も抵抗できない一介の囚人であることや、弁護士を解雇している状態で5人の殺人容疑の裁判に勝ち目がないことなどが見えてきてしまって、ジョーカーとアーサーの乖離が決定的になった。そして次の法廷でアーサーは5人の殺人容疑を認め、母を窒息死させたことを自白し、「ジョーカーなど存在しない。自分だけだ」というようなことを言った。今回の映画の最大のポイントは、この、人間の弱さを見せてしまったという点だと思う。「自分だけだ」と言ったのは、今やジョーカーは存在せず、自由の身で人殺しをして気分が高まった過去の自分だけだという意味が込められていたのではないだろうか。そこの解釈がどうであれアーサーは、社会からの熱狂や崇拝を得たものは強く在り続けなければならないという掟を破ってしまった。その結果、ハーレイからも信者からも失望され、俺こそがジョーカーだという気持ちすら芽生えさせてしまったはずである。その報いを受ける形でアーサーは最後に刺し殺されてしまった。これは社会から生み出されたカリスマが社会から殺されるまでのドラマであり、カリスマが秘めた人間の弱さとカリスマを生み出してしまう人間社会の脆さを表現したとても素晴らしい映画だと思った。

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